静寂があった。暗い。そして柔らかい。真綿に包まれているような……いや、それよりも滑らかな……液体の中に浮かんでいるような、それは、眠り。 両膝を抱え込むように体を丸めて、永遠とも思える時間を、ゆっくりと、待ち続ける。 いつかも、こうだったはずだ…と、ギル・ギルダーは思う。 いや、思うという言葉は正しくない。ただ、彼の意識が、既に記憶から失せて久しい、遠い感覚を取り戻し、その中でため息を付いたというだけのことだ。 ゆっくり、ゆっくりと、廻り続けた。鼓動。流れていく律動。血液の循環。それが彼がそこにいる証だった。 それが……ああ、突然だったのだ。ギルダーは記憶を呼び覚ます。突然、押し流された。熱く、苦しい濁流の中へと肉体は押しやられ………そう、肉体! この意識を包む自分自身! 初めてそれを感じた。 そこから空気の中、重力の中へと吐き出され、ギル・ギルダーは産声を上げた。とても、乱暴な力で……。 その時と同じように、今もまた、この闇は唐突に、彼を吐き出そうとしていた。意識だけの存在であるギル・ギルダーを、再び、物質としてのギル・ギルダーへと押し流していく。熱さ……そして、混濁した意識がいくつかのキー・ワードを弾き出し、鮮明に『記憶』…が、蘇る。 ザクの、手……。視界を覆う、機械の指。 さかのぼる。被弾し、煙を吹く白い戦闘機。あれは、クラーク中尉だ。「俺に続け」と、叫ぶ。あの人は、死んだ、のだろうか…? 「お前は初陣だ。俺の後についてくればいい」 太く静かな声で声をかけ、背中を叩いた。これも、そう遠くない記憶だ。出撃前だったか。初めての実戦で頼るものの無い彼にとっては、何より心強い言葉だった。再び、フラッシュバック。撃墜される戦闘機。ザクのマシンガン。騒音と振動が周囲を走りすぎ、もう、誰も居なかった。 ドクン。震えたのは意識か、肉体か。ギルダーはうめいた。最初に、恐怖。次に、悲嘆。 俺は、俺はどうなのだ? まだ覚醒しきらない頭脳が自らを認識し始める。それはあまりに混沌とした、半ば眠りの中での確認作業であったから、その順序も脈絡も出鱈目になった。 ギル・ギルダー。 U.C 0059 一般的スペースコロニー都市の中流階級に生まれる。兄弟は無し。 両親は既に亡い。彼が15の時、コロニーの事故で死亡した。彼は両親の遺体を見ていない。彼は、地球に居た。 学業成績は人よりよかったと思っている。一種の秀才だとも言われた。そう、あれは12歳の時であったか。教育熱心な…もしくは、分不相応にエリート志向の…両親が、地球で上級教育受けさせようと決めた。それ以来、両親から離れて暮らしてきた。真面目に勉学に取り組み、言われた課題を図式どおりに解いて見せることで周囲からは認められたし、それによって自分の価値を信じることも出来た。月に一度のヴィデオ・レターでは両親も喜んでくれたようだった。少年のギルダーは、嬉しかった。 彼が士官学校に入学して…18歳の時だ…わずか1年後。翌年、スペースコロニー、サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦からの独立を宣言した。 地球に残るのではなかった、と、嘆いた。なまじ成績が優秀であったために地球にとどまることが許された。そのまま誠実に己の義務を果たし、力を示し、エリート街道を歩んでいく。 彼の周囲は誰も皆、同じようなものだった。訓練が形式化され、散発的なテロを除いて戦闘は既に駆逐され、軍隊は秩序を護るための一つの機関に過ぎない。 軍人が戦争をして、死んでいく時代が来る。それは若く実戦を知らない彼らには出来の悪いフィクションであり、小説であり、漫画でしかなかった。 「流石だな、優等生」 と、からかったのは同期生のケント・マーテロだ。出来の良い士官候補生から、順にパイロットに格上げ。天国にも近い。ギル・ギルダーが並んでいた出世街道への行列が、そのまま戦闘機コックピットへの行列に変わったとき、この皮肉屋の友人は力なく笑いつつ、彼の肩を叩いたのだ。 「死ぬなよ」 とも、言われた。 死……。 死んだのか? 自問してすぐに打ち消す。俺は、ここにいる。 暗闇はいつの間にか、記憶の中の光景と溶け合い、それに彼が気づいた瞬間から真っ白に変わり始めた。ザクの、手……が、最後の記憶して脳に焼きつき、現在に至る。 声だ。よく通る。しかし低く、聞きづらい。男だ。 一人ではない。会話している。何を……? 「運の良い男だな。いや、不運と言うべきかもしれん」 どちらだろう? 意識を取り戻したギルダーは思う。あのまま眠り続けることは、心地よかった。ここへ戻ってくるよりも……。 …ここへ。 指が動く。最初に、小指だけ。次に中指まで。思い切って、握った。痛みが走る。腕だ。 それが彼の目を、開かせた。眩しい! 数度、瞬きをして、目を慣らす。 灰色。視界は一色だ。汚れは目立たないが、いくつかの溝があり、模様にも見えるし、亀裂にも見える。天井だ、と気づくのに、やや時間がかかった。 柔らかい。そう感じたのはベッドのシーツか。しかし身じろぎしてみると背中に当たる感触は意外に固く、体にかぶさる空気の手触りはは意外に重い。 ……熱い。額に汗が浮かんでいる。じっとりと、少しずつ噴き出していくような汗。不快だ…。 ギル・ギルダーは身を起こした。 重力に逆らう。腕がまだ痛んだものの、身体の反応はしっかりとしたものだった。動く。 「気が付いたのか」 影が彼に近づいた。答えるより先に、どうやら生き延びたらしいという実感が体を支配した。 右手。大げさなギブスがある。左手はどうやら無事らしい。胸にも脚にも包帯は巻かれていたが、起き上がれたところを見ればさほどのことではない、と、身体は言っている。 「ここは?」 影を見上げる。痩せた黒人男性だ。白衣を着ている。医療兵だろう。青年だ。短く借り上げた髪が坊主頭のようだと思った。 「医務室だよ。救護班に感謝するんだな。戦場で墜落した兵士を保護できるんなんて、何十人に一人のことだ」 運が良かったんだよ。と、つぶやきながらギルダーの体を点検する。脈を取り、体の各所を軽く小突き……荒っぽいやり方だと、ギルダーは思う……痛む場所を尋ねる。 「右手だけが治りきっていない。が、動けそうだな?」 「はい……おそらくは」 「なら、十分だな」 自嘲的な笑みと共に治療兵はシーツをかけなおした。何に、十分…? 問いただそうとした丁度その時、他の負傷兵がうめき声を上げ、坊主頭はそちらに手をとられた。 ギルダーはあたりを見渡した。負傷兵がベッドの上に転がっている。半分の顔は、包帯に隠れて見えない。残り半分の中に、見知った顔は見当たらなかった。 「クラーク中尉は……マスラン軍曹やカンタナ伍長は?」 共に出撃したベテランたちの顔を捜す。皆、撃墜されたはずだ……。 「死んだよ。全滅だ」 坊主頭が答える。何の感情も無い。負傷兵の汗をぬぐい、包帯を替えてやりながら無造作に答えた。 「全滅……」 肌が細かく震えた。血液が熱くなる。 同じように出撃した。同じ相手と戦い、同じように敗北した。自分だけはヒヨッコで、他は熟練のパイロットだった。 生き延びたのは、自分だけ。 力なくギルダーは首を振った。理屈に合わないではないか! 「……信じられません」 「事実だよ」 また淡々と、背を向けたまま坊主頭が言った。一瞬、この男の細い首を締め上げてやりたい衝動にギルダーは駆られた。だが、腕を握ったところでやめた。傷が痛む。 坊主頭が振り返る。その目は、もう何度もこんな事態を目の当たりにしている、悲劇に慣れきった瞳だった。 拳を緩める。八つ当たりをしてもどうにもなるまい。 「作戦はどうなったのです」 努めて軍人としての自分を優先させ、発言権を移譲した。状況は把握しなければならない。 オデッサ作戦。その大規模な反攻作戦の一角が、あの前線基地の攻撃だった。あの分では、攻撃は失敗だろう……。 「成功だ。大勝利らしい」 言葉少なに坊主頭。何の冗談だろうと思わず苦笑し、それから無性に情けなくなった。ギルダーの額に皺が集まる。自分は敗北し、死にかけただけの戦いなのだ。まぶたが震えた。 「彼らが無駄死にではなかったと思え。喜ぶんだよ」 「喜ぶ……」 そういう、理屈だろうか。一応は、道理だ。そういうことにしておこうか……。それは麻痺し始めた感覚が現状に適合しようとするサインかもしれない。 「お前にはこれからやるべきこともある。あるいは、死ぬより辛いかもしれんぞ」 「……何ですって?」 何を、やるって…? 「詳しくは専門家に聞いてくれ。すぐに呼んでくる。おそらく起き抜けで訓練になる。覚悟しておけ」 「ちょっと……」 右腕を軽く上げる。まだギブスが離れていない。 「人手が足りんそうだ。無理をさせるのが方針の上層部だよ」 職業意識だろうか。倫理観という奴だろうか。心底、不愉快そうに吐き捨てて、坊主頭は人を呼ばせた。 何が始まるにしても、どうやら楽はできないらしい……。ふと、記憶の底に安楽な眠りの残り香を見つける。いつかは、そんな時もあった。何かと溶け合うように、一体となって、規則正しい鼓動と眠りの中でうずくまり、この締め付けるような重みとも無縁で…。 が、それも重力と空気の中でつぶれて、やがて忘れられていった。